くろの雑記帳3 | 2012年09月

傍観者のメモ

8月11日に書いてそのままにしてあったのを加筆

今 小さな島をめぐり騒ぎが起きておりますが・・・

・・・


終戦日

季語なのか・・・?

ずいぶん前に読んだ新聞に書かれてた
外国人が毎年の8月15日前後の行事やメディアを見てそのように感じたとのこと



以下 父 母から聞いたことをメモ
ただただ羅列

各区切りごとの時間的なつながりはない

自分の為のメモであること

写真はいずれも家にあったものを撮影


1検済

上の写真は
詰襟の制服に学帽かぶった父(19才?)が写った写真の裏に捺されたもの

「検閲済」

昭和18年11月?日

今から70年前のこと

戦時中 父が日本から生まれ育った中国・青島(チンタオ)に帰る途中に
このように捺されたのかもしれないとのこと
国外へ出る時はチェックされる
軍事機密の建物や都合の悪いのが写っていないかチェックするのだろう
父の背景には木造校舎の板が写っているだけ

検済2

他の写真にも捺されたのが何枚かあった
それは父の官立高商(大学の前身)卒業記念の写真
戦時中の為かアルバムにはなってなく 一枚一枚バラバラになったのをもらっただけとのこと
印はもらったときにすでに捺されてたとのこと
そんな時代

・・・

父はスパイではないかと取り調べを受けたことがあると・・・

学生時代 夏休み 青島に帰る途中
日本から朝鮮まで船で そこから青島まで4日?かかる列車の中でのこと
憲兵が父のところへやってきて持っている荷物はすべて調べられた
その荷物のひとつ 本を取り上げ この本の内容について問われた
父は「この本は○○政治について悪口を書いた本です」と返答したとのこと
学校の図書館で借りた本だった

父はヘッセのように鼻が高くちょっとタレ目 そんな容姿から疑われたか?
たぶん思想取り締まりだろう

取り調べは30分も続いたと言ってた
長い長い30分だっただろう

・・・

汽車から眺める中国の途中の景色

見渡す限りどこまでも畑が広がる
いったい どこから人がやってくるのだろうと思った

・・・

青島へ(国外へ)帰る為の許可をもらおうとすると 父の周辺を調べられる身辺調査もあった
父だけではなく 国外へ行く場合は 皆 そのようにされたのだろうとのこと
また当時は特に学生には厳しかったからかもしれないとのこと

これも思想取り締まりの為か?

・・・

以下の写真は父が生まれ育った街 軍港「青島」  父が持っていた70年前?のポストカードを撮影 一部掲載

「青島」

日清戦争 三国干渉以後さまざまな理由からドイツがこの地を租借 軍港として利用

第1次世界大戦・日中戦争を経て日本の占領下に

aチンタオ
  景街の路東山 街華繁・島青那支← 写真のキャプション

ドイツがつくった西洋風な街並み

そこで育った父曰く とても美しい街並みだったとのこと

ネットで青島を調べるとこの頃の街が旧市街地として今も残っているらしい
このブログに載せた写真(以下も)の建物があるかどうかはわからない

写真を見て中国とはわからない 父は異国の中の異国に住んでたんだと思った
いつか父が生まれ育ったこの街を訪れてみたい

・・・

兵隊の時のこと

奈良で1000人ほど?の兵隊がサイパンへ行く為に待機していた
夜 サイパンへ行く兵隊の名前を呼ばれる
呼ばれた人は真っ青だったとのこと
サイパンは日本人が全滅した島

待機してる間 父はどんな心境だったか・・・

父もいずれ呼ばれるはずだった
ところがサイパンへ輸送する船が都合つかない
先にサイパンへ向かった船が戻ってきた その前の船は撃沈された
そんな戦況だった為か サイパン行きはなくなったらしいとのこと

aチンタオ3
 会教音福逸独・島青那支


浜松でのこと
陣地構築
ここに行き 敵襲(本土決戦)に備えて 穴堀りをした
墓の下まで穴を掘ったとのこと

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水平線の向こうにアメリカ軍の艦隊 航空母艦も来てるらしい(飛行距離が短い戦闘機の飛来を見て判断)

アメリカの戦闘機が襲来
パイロットの白い長いマフラーがなびく
そしてパイロットの顔が見える
それほどの低空飛行

戦闘機による機銃掃射
機関銃を下に向けて撃ってきた
そして上から機関銃の薬莢がバラバラと落ちてきたとのこと

・・・

水平線の向こうから艦砲射撃
地面にあたった瞬間 ものすごい爆発
松の木が吹っ飛ばされ 家の屋根に突き刺さってたとのこと

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焼夷弾

父は落ちてきた焼夷弾を拾い水の中に突っ込んだ
水から出すと再び燃えた 消えなかったとのこと

またたくまに町を焼き尽くしてしまった
遮るものがなにもなくなってた

・・・

爆弾の他に空から新聞のようなものをばらまかれた
日本の戦局が不利なことを日本語で書いてある

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浜松空襲の事をネットで調べた
市の規模のわりには空襲の回数が多い
浜松には軍の施設が多かった為とのこと
さらに他都市の爆撃で残った爆弾を戻る途中に
浜松へ落としていったとの記事もあった

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8/15のTV番組 NHKスペシャル「終戦・なぜ早く決められなかったのか」
新たに見つかった未公開資料から 当時の戦況と世界の動きから
昭和20年4月?~8月15日 この時期の日本の国家指導者や軍のトップ会議を再現しつつ
問い詰めていく番組

この頃 父は浜松

外務省・軍部は結論を出せないでいる ただただ会議をして先のばしにしているかのよう・・・
決定責任を回避しあっていた指導者の実態

父はこの番組を見ながら
「水平線の向こうにアメリカ軍の艦隊が来ているというのに・・・」
腹立たしく言ってた
そして再現会議の場面では それぞれの立場上から物が言えない 力関係の構造のことを
私に何度も話してかけてきた


もっと早く結論を出していれば 原爆も シベリア抑留も 中国残留孤児も その他等々・・・なかった


「終戦」・・・ 「敗戦」でもなく「降伏」でもなく「終戦」としたのは
あれだけ 政府があおっておきながら負けた 当時の日本国民の心情を反映してとのこと
「終戦」「敗戦」「降伏」それぞれニュアンスがずいぶん違う


チンタオ2
 容麗 校学小等高常尋一第人本日・島青那支

母の女学校時代の話

戦時中で男がいない為か
女生徒達は自分達の学校のプールを作るのを手伝わされた
プールの穴を掘ったり コンクリートにするための砂を数キロ離れた揖斐川から背負って運んだ
末っ子で甘やかされて育った自分(母)はとてもきつかったとのこと

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玉音放送

父は浜松で聞いた
炎天下 直立して聞いた
でもラジオからはガーガーガーガーと音がするだけで何を言ってるのかわからなかった
たぶん戦争はまだ続く・・・と言ってたのでは?・・・と周りの人と話してた
内容を知ったのは その玉音放送直後のラジオニュース
しばらくして朝日新聞 毎日新聞の号外も出たとのこと

終戦

その時の父の気持ちは勝った負けたとかではなく
「やれやれ・・・」 とのこと

・・・

父は終戦1年後? GHQ岐阜軍政部で翻訳を1年程やっていた
職安で募集してたから受けたとのこと
その職のテストは朝日新聞の社説を翻訳 論文だったとのこと 辞書も渡された
そして次にアメリカ人と会話 なまりの強い米語はわからなかった 英語とは違う
そこで再び翻訳テスト 今度は辞書なし 結果はアメリカ人が「OK 今日からやってくれ」
父は「今日は・・」断り 次の日から仕事

情報課の仕事を辞書を引きながら懸命に翻訳
水のことを「ワラ」って発音してた(父はイギリスの英語を習った)
アメリカ人の字は汚くて読めない
コーラを初めて飲んだ 妙な味だった

この仕事を受けた理由は辞めやすいからでは?とのこと
辞めて父の父の商売を引き継ぐためだった

この翻訳の仕事の話は
兵隊の時のつらかった話とは違い戦争が終わり
軍服を脱げば 敵も味方もないってな感じがした話だった

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大陸育ちの父は少し変わってるかもしれない

・・・

母の兄が長いシベリア抑留生活から帰ってきた
もう死んだ・・・と半分思ってたが生きて帰ってきた
母は大喜び 「兄ちゃん!兄ちゃん!」
でも その時は 兄は人が変わったように何も話さなかったとのこと

aチンタオ4
 (四の其)概大の街市島青きし麗・島青那支

第2次大戦終戦から67年

父母の時代は 思えば生まれて終戦までの約20年間 戦争ばかり

1教練
(軍事)教練
当時 中学校(15歳前後)の授業に取り入れられてたとのこと
本物の銃を持たされた 撃ちはしなかったとのこと

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戦争体験者がいなくなること

最近の新聞記事にも
戦争体験者の話を記録し語り継がないと・・・戦争体験者がいなくなることに 焦り・・・と書かれていた

67年経っても話すことができない
忘れたい負い目?
同期会の仲間達が生存しているからといった理由もあった
これは日本だけではないだろう 敗戦国だけではないだろう

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ネットで調べると
兵隊・民間の死者・捕虜を多く出したのは日本ばかりではない
人数で比較するのはどうかとも思うがソ連 ドイツは日本よりはるかに多い
民間人では中国が日本の12倍近く?の犠牲者との記事もあった
人数は 調査年代によってバラツキがあった
どれが正しいのかは わからない・・・わからないだろう

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父は学生時代 東京・長崎に住んでた
けれど東京大空襲 原爆にあわなかった
兵隊の時は 幸運にも?サイパン行きはなくなった
浜松も大空襲だったが生き延びた


終戦17年後に私が生まれた


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徴兵検査
中日新聞(夕刊)「紙つぶて」から
ある詩人が戦中 息子に重いリュックサックを背負わせ駆け足させたりするなどして
喘息の発作を誘発させ召集を免れさせた
肉親びいきではなく 皆が軍拒否を表明し国民運動まで持っていってほしい存念から・・・

「紙つぶて」の筆者
何か間違いがあった時「国に流された」と言い訳しないで済むように今考えなければ・・・
何かあったときは自分が責任を負わなければならない

・・・

映画「サイダーハウスルール」(アメリカ)のワンシーン
徴兵検査に別人の病気の肺のレントゲン写真を提出して免れさせた


私はそういうことができるかな?


私自信は? 
耳の聞こえの悪さ・・・微妙なところだ
免れたら うれしいか?
皆が戦場に行き 一人残される気持ち そんなことを昔よく考えてた

・・・

昔見たTV番組から
第2次大戦中に私のように耳が悪いことではずれた?人が実際にあった
その彼は見た目は健常者 身体は全然問題なし
なんか自分も役立てられないのかと悩む日々

ある日 バスが坂道で登れなくなり後ろへ下がってしまう このままでは崖下に
彼は バスを止めるために自らブレーキ代わりになって車輪に飛び込んで止めた
彼は死んだ・・・

残ったものの気持ちは どうだったろう
当時の背景からすれば周りからの白い目もあったかもしれない

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メディアを通じてしか世の動きを知ることができない
そのメディアはどうだろう どこまで正しい情報なのかわかるか?

先のフクシマ原発事故の記事 どこまでが事実?
戦時中と変わっていないのではないか?

・・・

私は戦争は嫌だけれど
でも右寄りの考えになったりする・・・
だから戦争体験者がいなくなることに とても不安だ

中日夕刊(9/3)「海岸物語」に本土決戦に備えた機関銃陣地跡が田原市に残っているとの記事があった
そのような遺構を見てみたいと思うようになってきた

少しは見方が変わるかもしれない

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次男・高校2年の時 修学旅行で2度目の沖縄へ
そこで「戦争体験者」の話を聞いて 感想文に

「やりきれない・・・」



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今回 この傍観者のメモを書き記しにあたってついでにネットで戦時中のことをいろいろ調べてみた

私はあまりに歴史を知らなさすぎだ
また自国のことばかりを見てたことに気づいた

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鳥の歌・・・カタルーニャ民謡 カザルス編曲


スピーチで鳥は「ピース ピース」と鳴くと言ってる
1971年10月24日国連での演奏 カザルス この時94歳
演奏は2分30秒あたりから



今回 第2次大戦のことをちょっといろいろ調べたせいか
パブロ カザルスのチェロの音色から
彼の「平和への切なる願い」が前にも増して伝わってきた








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